今回のおとぼけ動画は八代将軍、徳川吉宗についてワイワイおしゃべりしました。彼はいったいどんな人物だったのでしょう?!
1684年11月27日生まれ 射手座
身長155.5cm
血筋:紀州徳川家
将軍在任年齢:32歳
将軍在任期間:29年1ヵ月
正室:1人 側室:6人
子供:5人(男子4人 女子1人)
享年66歳 死因は脳卒中
幼い頃はやんちゃで、本当に暴れん坊だったそうです。ですが、将軍になると財政を立て直し、歴代将軍の中でもトップクラスの実力者だったと評する歴史学者が多数。
ちなみに「吉宗」という名前は紀州藩主になる時に変えたようです。
頼久→頼方→吉宗 吉宗の「吉」は五代将軍、綱吉の「吉」。吉宗の「宗」は鎌倉幕府八代執権、北条時宗の「宗」。
その後同じ八代目という事になり、偶然とはいえビックリしたでしょう。
吉宗が将軍になってからの事。当時の町奉行、大岡越前:大岡忠相(ただすけ)の元に「自分は吉宗の子だ」と主張する者がたびたび現れるようになりました。(若い頃はすぐ女性に手を出していたそうです。本当にやんちゃだったんですね)
身元を調べて違うと判明しても主張する者が多く、忠相が吉宗に「本当はどうなんですか?」と冗談まじりに訪ねると「覚えがある」と答え、否定しなかったそうです。
それ以降、訴え出た者の身元調査に時間を使う事になった大岡忠相。ただでさえ忙しいのに仕事が増えて大変だったでしょう。
幕府の財政を立て直す一環として、大奥の人員整理を敢行。美女をことごとく解雇。「美女はどこへ行っても得をするだろう」「美女は金がかかる」と後日本音を漏らしたそうです。
上野にしかなかった桜の花見スポットを飛鳥山、隅田川沿いに設けるよう指示したのは吉宗。なかなかやるじゃないですか。
紀州藩主だった徳川光貞の4男として生まれ、特に養子に出されず独立もせず、家に留まる「部屋住み」として一生を終えるような境遇だった吉宗。
吉宗の兄、徳川綱教(つなのり)は五代将軍、徳川綱吉の娘、鶴姫と結婚して将軍候補でした。
鶴姫が急死。綱教は病に倒れる。その後、父、光貞も急死。
結局、将軍候補7人が亡くなっています。
吉宗陰謀説、よくいわれますが、いや〜これは怪しい。
そんな吉宗の特徴をまとめると…
暴れん坊将軍のモデル。好奇心旺盛。勤勉家。切れ者。若い頃は女性に手が早かった。脳卒中を2度経験。
やはり「暴れん坊将軍」の印象が強い徳川吉宗。
次回は九代将軍、徳川家重について調べていこうと思います。